▼戦後教育の早急な改革を


平成18年7月26日(水)志木ロータリークラブ例会にて講演(概要)

 私は、昨年夏の補欠選挙によって埼玉県議会議員に初当選させていただきましたが、その前の9年間は地元志木市で市議会議員を務め、主に教育問題に非常に関心を持ち力を入れて活動させていただいております。

 私の住んでいる志木市では、多くの方がマスコミの報道などでご承知の通り、地方自治体の中では教育の先進都市と呼ばれ、前市長の時代に25人程度学級という少人数学級を全国で初めて取り入れ、不登校児に自宅でも授業を受けられるように教師を派遣し、面倒見るホームスタディ制度を設けるなど、様々な改革を進めております。

ひとつひとつの施策は、現在教育の現場で起っている様々な問題を解決していくために、対応策として大変評価出来る内容ものではあるとは思いますが、全国レベルで起こっている教育問題の抜本的な解決策になるのかと考えると、こういった対処療法だけでは到底解決しきれない状況にあるのではないかと考えております。

もちろんすべての人がそうだとは言いませんが、現在のような戦後教育を受けた結果、親が子どもを殺し、子が親を殺すなど全く理解に苦しむ凶悪な事件が多発し、学力や体力も年を追うごとに年々低下しております。

行政や教育委員会などは、さまざまな対応策を考え実施しておりますが、そういった傾向がなかなか改善されずに頭を悩ませております。

何をどう間違ってしまったのか。

私は、まず第一に戦後の行き過ぎた自主性や個人の尊重の名の下に、自分の欲望さえ満たされれば他人がどうなろうがそれでいいというわがままを認めてしまった事や、子ども可愛さにペットのように扱って親が子供を甘やかし続けて躾がなおざりにされてしまった事に主な原因があると考えております。

次に、先の大戦の敗戦ショックから歪んだ反省の下、行き過ぎた自虐史観が横行し、マスコミや教育界などから贖罪意識が無理やり植え付けられ、自分の郷土や祖国に誇りを持ち、自然に愛する事すらも偏狭なナショナリスト扱いされて否定されてしまった結果だと考えております。

私は昭和43年生まれのいわゆる新人類世代であります。最後の幼い頃外で元気に遊び、学校ではゲンコツを食らい、部活動では先輩後輩の上下関係が厳しく時には鉄拳制裁もされた世代でもあります。

ところがそれでも、裕福な時代に育った世代でもあるからかもしれませんが、中学校時代は校内暴力が吹き荒れ、荒れる学校に先生方が手を焼き、私自身も反抗期と重なって中学、高校では先生の手を焼かせた一人でもありました。

しかし、あの時代を振りかってみても、たとえ先生に反抗していたとしても先輩方は怖い存在であり、いわゆるツッパリグループに仮に所属していたとしても、そこには鉄の掟と厳しい規律があり、気合と根性がなければ悪ガキも務まらないというような時代でもありました。

あれからさらに四半世紀が経ちましたが、その後はご承知の通り荒れる学校はある程度治まりはしたものの、今の子ども達は冷め切ってわかり易く不良をする根性も意味もなくなり、その代わりに成績の優秀な子どもまでが突然親を襲ってみたり、普通の子が友人とのいざこざで簡単にナイフを使うなど加減なく制裁してしまい、命まで奪ってしまうなど、いつ誰が急に何を起すかわからない現状になってしまいました。

人の痛みがわからず命が軽んじられ、あたかもゲーム機のようにリセットすれば生き返るとでも考えているのではないかと疑ってしまうような、軽はずみな行動が見受けられ理解に苦しむ状況になってしまいました。

先ほど触れさせていただいた、現在の教育の問題点を検証してみますと、先生方は現在では一切体罰禁止となりましたので、怒る事といっても限界もあって、親も甘やかし続けておりますので、まず怖い大人がいなくなり今の子どもたちは言う事を聞かずに完全に大人を舐めきっております。

決して大人たちの感情的な体罰を肯定するつもりはありませんが、結果として皮肉な事に学校で全くゲンコツを食らわなくなった事で、子どもたちは殴られる痛みがわからず、キレると加減なく相手を滅多うちにしてする傾向が見受けられるようになってしまいました。

自主性を尊重しすぎて、好きな事ばかりやって甘やかし続けられたので、当然の事ながら我慢する能力は著しく低下しました。

今や先輩後輩の上下関係も厳しくないですから、年長者や大人を甘くみて言う事を聞く必要も感じておりませんから、簡単にキレてしまい就職しても長続きせず、ニートやフリーターが増加するのも当たり前の結果です。

親や先輩や大人がある程度怖い存在であれば、簡単にキレるなんて出来ません。キレたら逆に怒られてしまい、場合によっては鉄拳制裁を食らう可能性があるからです。

 そのくせ、そんなわがままで仕事が長続きしないなどの自分自身に嫌気がさして、自信も失っております。あるアンケート調査では日本の子どもの70%以上が自信を失っているとのことであります。ちなみに、米国では約40%、韓国で30%、中国で15%という結果の中で、我が国の多くの子どもたちが著しく高い割合で自信を失っており、当然といえば当然の事でありますが、一応本人たちも自覚症状はあるようであります。

 目標に向かって、たとえ厳しい現実があっても我慢をし、困難を乗り越えて目標を達成する事は何よりの喜びを感じる瞬間でありますが、その前に厳しい現実から簡単に逃れさせ、すぐに甘やかして諦めてしまうクセを親や教育界が行なってしまっているとしか思えてなりません。

 厳しい事に耐えられないという事は、我が国の誇るホワイトカラー、ブルーカラー関係なく勤勉であったものが失われる事となり、これでは資源が乏しく食料自給率の低い我が国が、今後も厳しい国際競争社会の中で大国として衣食住に苦労せず裕福なまま生き残っていく根幹が崩れてしまい、大幅に衰退する事も予測されます。

 そして、最近の自信の無くなった子どもが増えた原因の一つとして、行き過ぎた自虐史観と度を越えた贖罪意識は無関係ではないと思います。

 多くの一般的な若者と話をすればすぐにわかると思いますが、多くの人が歴史の勉強は嫌いだったと言っています。この現象は最高学府である大学を出た人達でも同じ現象が見受けられます。

 私からすれば当然の事で、過去の歴史から多くを学び、反省すべき点は反省し未来に生かす事には全く異論はありませんが、自分達の国だけ特別悪い国であった、祖先は悪い事ばかりしてきたと教えられれれば、郷土に誇りを持ち、歴史に関心を持つということに余程の変わり者でない限りならないでしょう。

 私自身は、歴史教科書があまり面白くなかったので独学で勉強した結果、歴史が好きになるという違う意味での変わり者でした。図書館や市販されている歴史の本では幾らでも祖国に誇りを持てる文献があるのですが、私達の学んだ教室の現場だけは違っていたのであります。

 しかし、多くの子ども達は今現在も多少の改善が見られるものの、教科書通り教われば自虐史観になるよう教育されております。あのマスコミが煽って世間を騒がせ、中国や韓国からクレームの出ている扶桑社の新しい歴史教科書は相変わらず今回も全国でほとんど採択されませんでした。

 市販されたので、読んで見た事のある人はわかると思いますが、政府の検定も受けていて著しく偏った内容であるとは到底思えないにもかかわらずです。

 ところが全国の多くで採用されている教科書は、相変わらずのそれ以外のいわゆる今まで通りの自虐史観に基づいた内容の教科書採用され続けております。

ではなぜ、そうなるのか。結局歴史教科書を採択する権限を持っているはずの教育委員会が教員団体などの圧力に簡単に屈してしまい、絞込みという専門員の教員が選んだ教科書がほとんど出来レースの中で決まっていて、教育委員は自分の意見をほとんど採択の場で言わずに、各地横並びで理解に苦しむ教科書採択が行なわれているからです。

その証拠に、埼玉県ではすべての市町村が歴史教科書では東京書籍のものを採用しております。歴史教科書は扶桑社や東京書籍以外にも全部で検定が通っている教科書が8社あるにもかかわらず、地方分権が叫ばれる中で埼玉県中の市町村が東京書籍1社だけを採用しており、何か利権でもあるのかと疑いたくなるような異様な結果が出ているのであります。

結局、教育委員会の人たちもやはり圧力が怖いのです。

中国や韓国にクレームをつけられた教科書を、内心では別に良いではないかと思っていても、採用すべきだと言ったと報道されれば、自称市民団体という左翼過激派に嫌がらせの手紙やビラで中傷されたり、役所や自宅を囲まれてスピーカーを通して抗議されたりするのが面倒なのです。実際に新しい歴史教科書を採択した杉並区では、区役所を左翼団体に囲まれ騒然となりました。

そういった左翼団体の抗議に対して、怒りを覚えた若者たちも逆に新しい歴史教科書採択支持するという事で区役所に集まり、教育委員会を守ろうとして声を上げ、何とか扶桑社の教科書が区長や教育委員会の信念を通して採用されましたが、しかし、ここまで大騒動になってまで信念を通そうと行動する教育委員なんて他の自治体ではほとんどおりません。

ですから、世論の流れが変わってきていたとしても、教育界だけは中々変わろうとせず膠着した教育が続けられるのであります。

志木市はそれでも割りと柔軟な方ではありましたが、埼玉県に行ってみるとそれこそ知事の意向でも教育の中立性を盾に変えようとしない動きが、特にこの歴史教科書問題では感じられます。

そういった膠着した状況から考えると、もはや教育委員会の意義も薄れてきており、教育委員会廃止論もそろそろ真剣に考え、民意で選ばれた各首長に権限を持たせなければ、教育の中立性を盾に実は中立どころか特定のイデオロギーに牛耳られ、民意とはかけ離れた時代遅れの歴史教育が続くこととなるのではないかと危惧しております。

いずれにしても、戦後行なった学校の授業で気持ちが暗くなるような自虐的歴史教育の歪みを是正し、郷土や祖国に対して誇りを持たせる事が子どもたちや若者に自信を取り戻すことになり、その事が自立したたくましい大人を育てることとなって抜本的な教育再生の道であると考えております。

70年代後半、英国病に悩まされたイギリスでもサッチャー教育改革でこのような改革が行なわれ、栄光ある英国の再生に成功しました。我が国でも、国会において教育基本法改正が与野党ともに検討されておりますが、決して政争の具にせず、協力して出来るところから早急に抜本的な戦後教育の改革、教育再生に取り組んでいただき、それに呼応して地方自治体も現場に直結しているので、誇りと自信を持たせる教育改革を進めなければならないと思います。