平成23年11月16日(火)メモノート
●持丸博氏「楯の会」初代学生長
・今の民主党政権では義憤にかられる事ばかり
・領土問題「領土は国の宝である」寸土たりともないがしろにしてはならない
二千数百年前冒頓 単于(ぼくとつ ぜんう)秦末〜前漢前期にかけての匈奴という国の王が今の中国大陸にいた。
即位直後、東胡から使者がやってきて「頭曼様がお持ちだった千里を駆ける馬を頂きたい」と言った。即位直後の若輩のため、甘く見てのことだった。冒頓単于は部下を集めて意見を聞いた。部下達は「駿馬は遊牧民の宝です。与えるべきではありません」と言ったが、冒頓単于は「馬は何頭もいる。隣り合う国なのに、一頭の馬を惜しむべきではない」といい、東胡へ送った。
これに更に甘く見た東胡は、再度使者を送り「両国のため、冒頓様の后の中から一人を頂きたい」と言った。部下達は「東胡は巫山戯すぎています。攻め込みましょう」と言ったのだが、冒頓単于は「后は何人もいる。隣り合う国なのに、一人の后を惜しむべきではない」と言い、東胡へ送った。
また東胡から使者がやってきて、「両国の間で国境としている千余里の荒野を、東胡が占有することにしたい」と言ってきた。
先の件では一致して反対した部下達も、遊牧民故に土地への執着が薄いこともあり二分された。その一方が「荒地など何の価値も有りません。与えても良いでしょう」と言った途端、冒頓単于は怒り「土地は国の根幹である!今与えても良いと言ったものは切り捨てろ!」と言い、馬に跨り「全国民に告ぐ!遅れたものは斬る!」と東胡へ攻め入った。
一方の東胡は先の件もあって完全に油断しており、その侵攻を全く防げなかった。物は奪い、人は奴隷とし、東胡王を殺し、東胡を滅亡させた。
▼このエピソードから馬や后は我慢できても、領土要求に対して土地は国の宝として敢然と断り、軍を出して戦わなければならないものであるという事。
◇40年前も各大学で学生紛争があり今と全く同じ状況であった
スト反対日本学生同盟 論争ジャーナル→楯の会
・作家三島由紀夫より国士三島由紀夫に興味を持った
・祖国防衛隊構想→自衛隊への体験入学となった 昭和42年4月〜5月の45日間
富士学校 習志野ヘリ降下訓練を42歳の三島由紀夫が執筆のかたわら体験した。(大正14年1月14日生まれ)
民間防衛の中核となりたいとの思いがあった。→将校になるための軍事訓練
昭和43年3月 二十数名の学生集めて滝ヶ原駐屯地で訓練したのが楯の会1期生→昭和45年の亡くなる5期生まで行われた(百数十名)
・目的は軍人精神、技術の習得。
民間防衛とは・・・革命等の争乱が起きた場合反革命の前衛として闘う→楯の会はスタンバイ待ちの体制であった。
昭和43年から44年にかけて段々状況が変わる→警察力の強化(数年前反革命の前衛として闘うという予期した通りにはならなかった)
昭和44年10月21日「荒れた国際反戦デー」社共両党・総評など86万人が統一行動。反共産党系学生のゲリラ活動で1,505人が逮捕された事件を境に左翼の力が弱まっていった。→楯の会の目標を失ってしまった。
・残りの1年は三島由紀夫にとって苦難の日々であった。(アンチ革命勢力としての存在感が無くなってしまった)
・昭和44年には東大全共闘対話集会にも参加
◆昭和45年11月25日に向けた構想を練っていた。
※持丸氏は昭和44年10月に楯の会を退会
昭和45年11月25日市ヶ谷にて5人の独自行動として市ヶ谷に行った
三島由紀夫自決
・楯の会は三島の死によって解散。
◇三島は日本国憲法に体をぶつけて死んだのではないかと言われているが、今思うとそれは違うのではないかと思っている。政治的には結果として憲法は未だ変わらずあまり意味を持たなかったが、もっと大切なものを訴えたかったのだと思う。それは、米国によってもたらされた近代合理主義に侵され、日本だけでなく世界が動かされ席巻されている事に対するアンチとしての抗議をしたかったのではないかと思っている。
「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」
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◇三島の予想が当たってしまった